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ハリー・デービス (1873年生の内野手) : ウィキペディア日本語版
ハリー・デービス (1873年生の内野手)

ハリー・デービスHarry H. Davis , 1873年7月19日 - 1947年8月11日)は、1900~1910年代に活躍した ・メジャーリーグの野球選手(内野手)。アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィア生まれ。右投げ右打ち。ニックネームは"Jasper"(ジャスパー)。
アメリカンリーグ創設期のフィラデルフィア・アスレチックス(現:オークランド・アスレチックス)の初代キャプテンで、ボールの飛ばない時代ながら『4年連続のリーグ本塁打王』となった。〔4年以上連続で本塁打王となったのはフランク・ベーカーベーブ・ルースラルフ・カイナーとデービスの4人〕
== 経歴 ==
1895年ニューヨーク・ジャイアンツに入団したが、目立った活躍はなく翌1896年ジェイク・ベックリーとの交換トレードでピッツバーグ・パイレーツに移籍。パイレーツでは1897年にリーグ最多となる28本もの三塁打を量産し.305の打率を残したが、翌1897年にはルイビル・カーネルズワシントン・セネタースと球団を転々とした。1898年オフには一度フィラデルフィア・フィリーズとも契約を交わしたことがある(出場せず)。
1901年アメリカンリーグが創設されたのに伴い、故郷のフィラデルフィア・アスレチックスに入団。監督のコニー・マックは、地元出身だったデービスをチームのキャプテンに任命し、マックが不在の時にはデービスがチームの指揮をとることもあったという。1902年にはリーグ最多の43本の二塁打、92打点などの活躍でアスレチックスをリーグ優勝に導いている。なお同年28盗塁を記録しているが、資料(リンク参照)によれば、同年8月13日のタイガースとの試合では逆走盗塁(二塁から一塁への盗塁)を記録している〔ルールで明確に逆走盗塁が禁止されたのは1920年〕。
長打力があり足も速かったデービスは、1904年にリーグ最多の10本の本塁打を記録したのをはじめ、リーグ優勝した1905年には得点・二塁打数・本塁打数・打点の4部門でリーグトップの成績を残した。本塁打数は1907年まで4年連続でリーグ最多となり、またリーグ最多二塁打数も通算で3度達成している。また打点は1905年、1906年の2年続けてリーグトップの成績だった。
4度目の本塁打王となった1907年を境に成績は低下したが、1910年のワールドシリーズでは3本の二塁打を放ち、また1911年には5打点を挙げるなどの活躍を見せた。同年に一度アスレチックスを離れ、1912年には1年間クリーブランド・ナップス(現:クリーブランド・インディアンス)の監督を務めた。1913年に再びアスレチックスに戻ったが、1917年に選手を引退するまでは年に数試合出場する程度で、コーチとしての役割の方が大きかったようである。選手引退後もアスレチックスには1927年まで在籍していたが、デービスはアスレチックスに在籍のままフィラデルフィアの市議会議員も掛け持ちしていたそうである。1947年8月11日にフィラデルフィアで死去。満68歳没。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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